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言の葉の舟書道茶屋 ふみ兎の物語 第一話 黒猫クロ — 言刃燈還

第一話 / 全四話

黒猫クロ言刃燈還

その声が、もう一度聞きたかった。

朱里に拾われた黒い子猫。名前を呼ぶ声が途絶えた夜、クロは月の道へ足を踏み出す。

全17場面。あなたの速さで、一場面ずつ。

黒猫クロの物語の扉
言の葉の舟STORY 01 / 04
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第一話 黒猫クロ場面 01 / 17

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第一話 黒猫クロ 言刃燈還・全17場面

1-01 黒い子猫

納屋の隅で、子猫が生まれた。

白や茶の毛に埋もれて、一匹だけ、炭のように黒い子がいた。

「その黒いのは、家に置かない方がいい」

大人の手が籠へ伸びた。朱里は先に、その子を抱き上げた。

まだ目も開かない顔が、袖の中へ潜ろうとする。

「この子は、私が守る」

小さな爪が、朱里の指に掛かった。

1-02 クロという名前

朱里は、皿に入れた乳を子猫の前へ置いた。

「クロ。こっち」

子猫は皿を通り過ぎ、朱里の足にぶつかった。

「そっちじゃないよ。クロ」

名前を呼ばれるたび、抱き上げる手が来た。暖かい膝があった。

やがてクロは、その二つの音を聞くと、顔を上げるようになった。

1-03 墨の匂い

クロが大きくなる頃、朱里の机にはいつも墨の匂いがした。

筆が動くと、膝の上から前足を伸ばしたくなる。

ある日、乾く前の半紙を踏んでしまった。

朱里はしばらくその跡を見て、それから吹き出した。

「ここだけ、クロが書いたね」

失敗した紙を、朱里は捨てなかった。机の脇へ、二つの足跡ごと貼った。

1-04 井戸端の声

「あそこの母親は、また大げさなことを言っていたよ」

井戸端で声がした。別の人が、朱里の母を「狂言者」と呼んだ。

何の話か、クロには分からなかった。

朱里も桶を持ったまま、そこに立っていた。

大人たちは一度こちらを見ると、少し声を落とした。

帰り道、朱里は桶を持つ手を何度も替えた。

1-05 黒猫のいる家

そのうち、声は朱里にも向くようになった。

「あの家の子だ」「黒猫まで飼っている」

朱里が近づくと話をやめ、通り過ぎると笑う者もいた。

クロは、朱里の足首に体を寄せた。

いつもなら撫でてくれる手が、その日は下りてこなかった。

玄関を閉めてから、朱里はクロを抱いた。少し、強すぎるくらいに。

1-06 書きかけの一枚

朱里は机に向かった。

一画を書き、止まる。紙を替えて、また同じところで止まる。

クロが膝へ上がると、朱里は筆を置いた。

「今日は、うまく……」

言い終わらないまま、口を閉じた。

クロはいつものように鳴いた。朱里の手は背を撫でたが、笑い声はしなかった。

1-07 閉じた戸

それから、朱里が机に向かう日は減った。

帰ってきても、家の人の問いにうなずくだけだった。

ある夕方、朱里はクロを抱き上げずに部屋へ入った。

戸が閉まった。

クロは前足で戸を押した。少し開いた隙間から、椅子の脚が見えた。

朱里は座っていた。窓の外を見たまま、動かなかった。

1-08 扉の前

クロは鳴いた。

餌をねだるときより長く、抱いてほしいときより大きく。

返事はなかった。

戸の隙間へ足を入れると、しばらくして朱里の指が触れた。

指は冷たかった。クロは、その場に腹をつけた。

日が暮れても、足を引っ込めなかった。

1-09 言葉の刃

クロの耳に、井戸端の笑い声が残っていた。

朱里が筆を置いたときの、口元も覚えていた。

あの声さえ、届かなければ。

クロは机の脇を見た。二つの足跡のある紙が、まだ貼ってあった。

あの日は、同じ口が笑っていた。

クロには、朱里を傷つけた言葉と、名前を呼んだ言葉を、どう分ければよいか分からなかった。

1-10 月の庭

夜、庭の水鉢に丸い月が映った。

猫たちに伝わる、境界を渡る踊りがある。

クロは水鉢の周りを回った。尾を上げ、前足を揃え、もう一度回る。

水面の月に、道がついた。

部屋を振り返る。朱里の影は、まだ窓際にあった。

クロはその姿を目に入れてから、月の道へ踏み出した。

1-11 羽澄国

水の向こうには、短冊が浮かぶ夜があった。

紙に書かれた字が、それぞれ違う明るさで灯っている。

提灯を持った猿が、道の先に座っていた。

「どこへ行く」

「朱里の声を、探しに」

自分の返事に、クロは驚いた。猫の喉から、人の声は出ていない。

「ここは羽澄国。口の音より、言おうとしたことが届く」

猿は提灯を少し持ち上げた。「わしは夜灯猿だ」

1-12 言刃燈還

「朱里を傷つけた言葉を、なくしたい」

夜灯猿は、火傷の跡のある短冊を見せた。

そこには小さく、「言刃燈還」と書かれていた。

「刃になった言葉を、灯へ還す。そのために歩く者の言句だ」

「それを持って帰れば、朱里は話すか」

猿は答えず、短冊を置いた。

「その子が今、何をしてほしいか。それも聞いてこい」

クロは、遠くで燃える赤い空を見ていた。

1-13 消えかけた灯

笑う地蔵の足元に、小さな灯があった。

地蔵が手を開くと、その灯はクロの前へ浮かんだ。

隣では、一枚の短冊が泥に沈みかけていた。

「まっていて」

字の端から、暗くなっていく。

クロは灯を受け取った。朱里の部屋へ持ち帰るつもりで、胸に抱えた。

1-14 分ける灯

数歩進んで、クロは振り返った。

泥の中の字は、もうほとんど読めなかった。

戻る。胸の灯を、短冊へ押し当てる。

「まっていて」が、もう一度浮かび上がった。

その分、クロの灯は小さくなった。

これでは足りないかもしれない。朱里がまた傷ついたら、どうする。

クロは地蔵に頭を下げ、赤く燃える楼閣へ向かった。

1-15 朱焔

楼閣には、数えきれない風鈴が吊られていた。

その短冊を食べるように、朱焔の炎が這っている。

「あの家は変だ」

見覚えのある言葉が、火の中で反り返った。

クロは飛びつき、短冊を引き抜いた。すると上から、同じ言葉の紙がまた落ちてきた。

人の世界で誰かが言い直すたび、炎に新しい餌が降ってくる。

1-16 消えない炎

クロは一枚、また一枚と短冊を引いた。

爪が焼け、ひげが縮れた。火は小さくならなかった。

「やめろ」

前足で押さえた紙の上にも、次の紙が積もる。

朱里の部屋では、こんなことが毎日起きていたのか。

クロは最後の灯をかばったまま、炎の奥へ進んだ。

足元の鏡が割れ、水が噴き上がった。

1-17 水鏡の底

熱が、急に遠ざかった。

クロは暗い水の中を沈んでいた。

上へ伸ばした足が、何にも触れない。

朱里の袖をつかんだ、あの日の爪を思い出した。

今度は、自分が抱き上げたかった。

口を開いても、水の中では名前を呼べなかった。

最後に残った灯を胸へ寄せ、クロは目を閉じた。