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第一話 / 全四話
その声が、もう一度聞きたかった。
朱里に拾われた黒い子猫。名前を呼ぶ声が途絶えた夜、クロは月の道へ足を踏み出す。
全17場面。あなたの速さで、一場面ずつ。

挿絵を読み込めませんでした。
物語は、そのままお読みいただけます。
ここまで読んでくださった、あなたへ。
もう一度、舟に乗るなら。
二つの足跡。「まっていて」の短冊。戸の前に残った、小さな前足。物語のはじめには、帰り道につながるものが、もう置かれていました。
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第一話 黒猫クロ 言刃燈還・全17場面
納屋の隅で、子猫が生まれた。
白や茶の毛に埋もれて、一匹だけ、炭のように黒い子がいた。
「その黒いのは、家に置かない方がいい」
大人の手が籠へ伸びた。朱里は先に、その子を抱き上げた。
まだ目も開かない顔が、袖の中へ潜ろうとする。
「この子は、私が守る」
小さな爪が、朱里の指に掛かった。
朱里は、皿に入れた乳を子猫の前へ置いた。
「クロ。こっち」
子猫は皿を通り過ぎ、朱里の足にぶつかった。
「そっちじゃないよ。クロ」
名前を呼ばれるたび、抱き上げる手が来た。暖かい膝があった。
やがてクロは、その二つの音を聞くと、顔を上げるようになった。
クロが大きくなる頃、朱里の机にはいつも墨の匂いがした。
筆が動くと、膝の上から前足を伸ばしたくなる。
ある日、乾く前の半紙を踏んでしまった。
朱里はしばらくその跡を見て、それから吹き出した。
「ここだけ、クロが書いたね」
失敗した紙を、朱里は捨てなかった。机の脇へ、二つの足跡ごと貼った。
「あそこの母親は、また大げさなことを言っていたよ」
井戸端で声がした。別の人が、朱里の母を「狂言者」と呼んだ。
何の話か、クロには分からなかった。
朱里も桶を持ったまま、そこに立っていた。
大人たちは一度こちらを見ると、少し声を落とした。
帰り道、朱里は桶を持つ手を何度も替えた。
そのうち、声は朱里にも向くようになった。
「あの家の子だ」「黒猫まで飼っている」
朱里が近づくと話をやめ、通り過ぎると笑う者もいた。
クロは、朱里の足首に体を寄せた。
いつもなら撫でてくれる手が、その日は下りてこなかった。
玄関を閉めてから、朱里はクロを抱いた。少し、強すぎるくらいに。
朱里は机に向かった。
一画を書き、止まる。紙を替えて、また同じところで止まる。
クロが膝へ上がると、朱里は筆を置いた。
「今日は、うまく……」
言い終わらないまま、口を閉じた。
クロはいつものように鳴いた。朱里の手は背を撫でたが、笑い声はしなかった。
それから、朱里が机に向かう日は減った。
帰ってきても、家の人の問いにうなずくだけだった。
ある夕方、朱里はクロを抱き上げずに部屋へ入った。
戸が閉まった。
クロは前足で戸を押した。少し開いた隙間から、椅子の脚が見えた。
朱里は座っていた。窓の外を見たまま、動かなかった。
クロは鳴いた。
餌をねだるときより長く、抱いてほしいときより大きく。
返事はなかった。
戸の隙間へ足を入れると、しばらくして朱里の指が触れた。
指は冷たかった。クロは、その場に腹をつけた。
日が暮れても、足を引っ込めなかった。
クロの耳に、井戸端の笑い声が残っていた。
朱里が筆を置いたときの、口元も覚えていた。
あの声さえ、届かなければ。
クロは机の脇を見た。二つの足跡のある紙が、まだ貼ってあった。
あの日は、同じ口が笑っていた。
クロには、朱里を傷つけた言葉と、名前を呼んだ言葉を、どう分ければよいか分からなかった。
夜、庭の水鉢に丸い月が映った。
猫たちに伝わる、境界を渡る踊りがある。
クロは水鉢の周りを回った。尾を上げ、前足を揃え、もう一度回る。
水面の月に、道がついた。
部屋を振り返る。朱里の影は、まだ窓際にあった。
クロはその姿を目に入れてから、月の道へ踏み出した。
水の向こうには、短冊が浮かぶ夜があった。
紙に書かれた字が、それぞれ違う明るさで灯っている。
提灯を持った猿が、道の先に座っていた。
「どこへ行く」
「朱里の声を、探しに」
自分の返事に、クロは驚いた。猫の喉から、人の声は出ていない。
「ここは羽澄国。口の音より、言おうとしたことが届く」
猿は提灯を少し持ち上げた。「わしは夜灯猿だ」
「朱里を傷つけた言葉を、なくしたい」
夜灯猿は、火傷の跡のある短冊を見せた。
そこには小さく、「言刃燈還」と書かれていた。
「刃になった言葉を、灯へ還す。そのために歩く者の言句だ」
「それを持って帰れば、朱里は話すか」
猿は答えず、短冊を置いた。
「その子が今、何をしてほしいか。それも聞いてこい」
クロは、遠くで燃える赤い空を見ていた。
笑う地蔵の足元に、小さな灯があった。
地蔵が手を開くと、その灯はクロの前へ浮かんだ。
隣では、一枚の短冊が泥に沈みかけていた。
「まっていて」
字の端から、暗くなっていく。
クロは灯を受け取った。朱里の部屋へ持ち帰るつもりで、胸に抱えた。
数歩進んで、クロは振り返った。
泥の中の字は、もうほとんど読めなかった。
戻る。胸の灯を、短冊へ押し当てる。
「まっていて」が、もう一度浮かび上がった。
その分、クロの灯は小さくなった。
これでは足りないかもしれない。朱里がまた傷ついたら、どうする。
クロは地蔵に頭を下げ、赤く燃える楼閣へ向かった。
楼閣には、数えきれない風鈴が吊られていた。
その短冊を食べるように、朱焔の炎が這っている。
「あの家は変だ」
見覚えのある言葉が、火の中で反り返った。
クロは飛びつき、短冊を引き抜いた。すると上から、同じ言葉の紙がまた落ちてきた。
人の世界で誰かが言い直すたび、炎に新しい餌が降ってくる。
クロは一枚、また一枚と短冊を引いた。
爪が焼け、ひげが縮れた。火は小さくならなかった。
「やめろ」
前足で押さえた紙の上にも、次の紙が積もる。
朱里の部屋では、こんなことが毎日起きていたのか。
クロは最後の灯をかばったまま、炎の奥へ進んだ。
足元の鏡が割れ、水が噴き上がった。
熱が、急に遠ざかった。
クロは暗い水の中を沈んでいた。
上へ伸ばした足が、何にも触れない。
朱里の袖をつかんだ、あの日の爪を思い出した。
今度は、自分が抱き上げたかった。
口を開いても、水の中では名前を呼べなかった。
最後に残った灯を胸へ寄せ、クロは目を閉じた。