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言の葉の舟書道茶屋 ふみ兎の物語 第二話 黒猫あかり — 断詞消音

第二話 / 全四話

黒猫あかり断詞消音

守りたい。その願いは、どこまで。

戻ってきた膝の温かさ。ようやく動き始めた筆。クロは、あの戸が再び閉まるのを見てしまう。

全16場面。あなたの速さで、一場面ずつ。

黒猫あかりの物語の扉
言の葉の舟STORY 02 / 04
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第二話 黒猫あかり場面 01 / 16

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第二話 黒猫あかり 断詞消音・全16場面

2-01 岸辺

誰かが、クロの体を何度も撫でていた。

冷たい水が毛から滴り、腕の下へ落ちた。

「クロ」

人の世界の声だった。

目を開けると、朱里の顔が近くにあった。濡れた髪が頬に張りついている。

クロは鳴こうとして、咳き込んだ。朱里の腕に、さらに力が入った。

2-02 探す足

クロがいなくなってから、朱里は何度も家の外へ出た。

声が出ない日は、猫の絵を描いた紙を持って歩いた。

「黒い猫」と書いて見せ、首を振られると、次の家へ行った。

あの家の子だ、と言う声がしても、足を止めなかった。

池のほとりで黒いものを見つけたとき、紙が手から落ちた。

朱里は岸へ膝をつき、片手で根をつかんで、もう片方の手を水へ伸ばした。

2-03 温める手

家に戻ると、朱里は何枚も布を替えた。

母が運んだ湯で布を温め、焦げた毛の周りをそっと拭く。

クロが身じろぎすると、朱里の手も止まった。

「いたい?」

かすれた声だった。クロは目を細めた。

朱里は拭く場所を変えた。夜になっても、寝床の隣から離れなかった。

2-04 ここにいて

傷が乾く頃、クロはようやく朱里の膝へ上がれた。

机の脇には、足跡のついた半紙が残っていた。

朱里は背を撫でながら、何度も小さく息を吸った。

「ずっと、そばにいてね」

クロが顔を上げる。

「クロは、ここにいて」

クロは一度鳴いた。その返事を聞いて、朱里の肩が少し下がった。

2-05 戻った筆

朱里は、少しずつ筆を洗うようになった。

書ける日も、墨をすっただけで終わる日もあった。

クロは膝に乗り、机へ伸ばしかけた足を引っ込めた。

「今日は、足跡はお休み?」

朱里が笑った。

クロは目を閉じた。その声が聞こえる間は、火傷の痛みも遠かった。

2-06 夏の約束

数か月が過ぎた。

朱里は古い筆を布に包み、書道の教室へ通い始めた。

出かける前には、クロの皿へ水を入れた。

「帰ったら、見せるね」

クロは玄関までついていった。

帰ってきた朱里が、どんな紙を広げるか。それを待つ時間ができた。

2-07 開かれなかった包み

ある日、朱里はいつもより早く帰った。

クロが近づいても、筆の包みを開かなかった。

靴を揃えずに部屋へ入り、戸を閉めた。

クロは前足を差し込んだ。隙間は、それ以上広がらなかった。

夕方になっても、水の皿は朝の場所にあった。

戸の向こうで、紙を丸める音がした。

2-08 教室で起きたこと

その日の午後。朱里の書が、教室の前に掲げられていた。

教えていたのは、弥生の母でもある福月だった。

「朱里、努力は立派です。けれど、これはまだ“書”ではありません」

朱里は半紙を見た。どの線を直せばよいのか、聞こうとした。

福月は、次の生徒の紙へ手を伸ばしていた。

隣の弥生も、口を開けないまま座っていた。

2-09 また扉の前

夜、少し開いた戸からクロは部屋へ入った。

朱里は膝を抱えていた。床に、丸められた半紙があった。

クロがそれを鼻で押すと、朱里は急いで取り上げた。

古い筆も、見えないところへしまった。

クロの耳に、炎の中へ降り続けた悪口が蘇った。

ここへ戻ってきても、届いてしまう。

クロは朱里の手を舐めた。何度舐めても、手は開かなかった。

2-10 照ヶ崎

朱里が眠ったあと、クロは玄関へ向かった。

一度、部屋へ戻った。膝のそばには、丸くなれる隙間があった。

そこに前足を置き、それから引いた。

クロは海辺の照ヶ崎へ走った。

波が引いた岩の間に、月明かりより白い蛇がいた。

「言葉を、消したい」

白蛇は頭を上げた。「どの言葉を」

2-11 消えるもの

「朱里を傷つけるものを、全部」

「その者たちの口を選んで塞ぐ力ではない」

白蛇の体の下で、波が動いた。

「渡せるのは、音を断つ力だ。悪口と一緒に、礼も、呼び声も消える。紙の文字は残る」

クロは耳を伏せた。

「それでも、あの声を聞かなくてすむ」

白蛇はしばらく、クロの顔を見ていた。

2-12 三つの代償

「その力のために、おまえと朱里を結ぶものを手放せ」

最初は約束。そばにいると応えた相手を置いて、境界の向こうへ行く。

次は名前。「クロ」と呼ばれても、その名はもう自分の名として胸に届かない。

最後は声。人の世界へ帰っても、朱里へ鳴いて返すことはできない。

膝の温かさ。二つの音。返事を聞いた朱里の笑顔。

クロは、三つとも思い浮かべた。

「記憶は残す。それを失ったと、おまえに分かるように」

白蛇の言葉が終わっても、クロはすぐにはうなずけなかった。

2-13 黒猫あかり

「力を手放せば、町の音は戻せる。だが、払ったものは戻らない」

白蛇は最後にそう告げた。

クロは、朱里の閉じた手を思い出した。

またあの部屋へ戻って、何もできずに座るのか。

長い間のあと、クロは頭を下げた。

波に映る自分へ、昔の名を呼びかける。分かる名前なのに、自分の方へ振り向いてこない。

猫は、朱里が机に置いていた小さな灯を思った。

「あかり」

今度は、その名を自分で選んだ。

2-14 断詞消音

白蛇が輪を描いた。輪の中に、無音の海ができた。

「断詞消音」

あかりが足を踏み入れると、潮騒が途中で切れた。

町へ向かって、静けさが広がっていく。

井戸端の声が止み、戸を叩く音が消えた。

あかりは顔を上げた。

今夜はもう、あの声で朱里が目を覚ますことはない。

2-15 ありがとう

境界の水面に、朱里の部屋が映った。

母が湯のみを机へ置き、朱里の肩に布を掛けた。

朱里の唇が、ゆっくり動く。

「あ・り・が・と・う」

何度も見た口の形だった。母は聞き取れず、顔を近づけた。

朱里はもう一度、同じ形に口を動かした。

あかりは水面へ耳を寄せた。何も聞こえなかった。

2-16 届かない足

朱里は湯のみを両手で包み、部屋を見回した。

机の下。寝床。閉じた戸。

それから、あかりが知っている二つの音の形に、口を動かした。

猫は前足を伸ばした。水の向こうの膝に、触れたかった。

爪は冷たい波をすくっただけだった。

あかりは足を下ろせずにいた。

その背後で、音のない町が夜を迎えた。