本文一覧へ
言の葉の舟書道茶屋 ふみ兎の物語 第三話 ふみうさぎ — 猿島の夜灯猿

第三話 / 全四話

ふみうさぎ猿島の夜灯猿

言えなかった言葉にも、渡す相手がいる。

半日前、弥生は手を上げられなかった。音を失った教室で出会った小さな兎が、言の葉の舟を浮かべる。

全16場面。あなたの速さで、一場面ずつ。

ふみうさぎの物語の扉
言の葉の舟STORY 03 / 04
音楽は、お好みで右上から。音を出さずに読むこともできます。しおりは自動で残ります。
第三話 ふみうさぎ場面 01 / 16

この話の本文を一覧で読む

第三話 ふみうさぎ 猿島の夜灯猿・全16場面

3-01 七夕の前日

町から音が消える、半日前。

弥生と朱里は、書道の教室で机を並べていた。

朱里は古い筆の穂先を、水の入った器で整えた。

「いつか、見た人が覚えていてくれる字を書きたい」

弥生がどんな字か尋ねると、朱里は少し考えた。

「まだ分からない。でも、書きたいものはある」

窓の外では、蝉が鳴いていた。

3-02 立てなかった手

福月が朱里の半紙を掲げた。

「朱里、努力は立派です。けれど、これはまだ“書”ではありません」

弥生は、隣の手が筆を強く握ったのを見た。

昨日、朱里は同じ字を何枚も書いていた。弥生には好きな線もあった。

それを言おうとして、母の顔を見た。

間違っていたら、どうしよう。

膝から少し浮いた手を、弥生は元の場所へ戻した。

3-03 いつもの帰り道

教室が終わると、朱里は一人で先に出た。

弥生は筆を洗いながら、足音を聞いていた。

今なら追いつける。何を言うか決めてから行こう。

水が透明になるまで、もう一度筆をすすいだ。

顔を上げたとき、廊下には誰もいなかった。

帰り道の角で、弥生は朱里の家の方を見た。

結局、そのまま自分の家へ帰った。

3-04 音のない朝

翌朝、目覚ましの針だけが動いていた。

廊下で福月が何かを言った。唇は動くのに、声が聞こえない。

窓を開ける。木は風で揺れていた。葉擦れも、蝉の声もしなかった。

弥生は自分の名前を言ってみた。

胸が震えたことだけが分かった。

机の上の半紙に「聞こえない」と書くと、福月も同じ言葉を書いた。

3-05 空いた席

学校では、大人も子どもも紙を手にしていた。

昨日までと同じ教室で、机を動かす音さえしなかった。

朱里の席は空いていた。

弥生はその机に触れた。誰かが机を使わなくても、机はそこにある。

「昨日は、ごめん」

言おうとした言葉は、誰にも届かなかった。

弥生は、自分の教科書を開いた。

3-06 教科書から来た兎

ページの間から、白い耳が出た。

小さな兎が机へ下り、弥生を見上げた。

口が動く。やはり音はない。

兎は教科書の余白に、指で文字を書いた。

「文兎。ふみと、と読む」

続けて、「言の葉を運ぶ、ふみうさぎ」と書いた。

弥生が手を伸ばすと、ページの奥に水面が開いた。

3-07 言の葉の舟

文兎は一枚の紙を折り、水面へ置いた。

紙の舟は弥生が乗れる大きさになり、机の向こうへ浮かんだ。

舟に移ったとたん、文兎の言葉が届いた。

「ここからは、言おうとしたことが聞こえる」

「町の音を、戻せる?」

「奪った者が、力を手放せば。でも、その前に会ってほしい者がいる」

文兎は、月の浮かぶ海へ舟を押し出した。

3-08 猿島の回廊

猿島の岸には、赤煉瓦の道が続いていた。

壁は湿り、足元の水に灯が揺れていた。

回廊の奥で、夜灯猿が提灯を持ち上げる。

「何を探しに来た」

「音を。それと……」

弥生は、朱里の机を思い出した。

「昨日、言えなかったことを」

猿は横へずれた。背後に、教室へ続く扉があった。

3-09 第一の試練

扉の向こうに、昨日の朱里が座っていた。

福月の声が響き、弥生の手が膝へ戻る。

朱里がこちらを向いた。

「どうして、何も言ってくれなかったの?」

弥生は顔を伏せた。言い訳をしようとすると、文兎が隣で止まった。

「それは、君が恐れている問いだよ。朱里の気持ちは、まだ聞いていない」

弥生が顔を上げると、朱里の席は空だった。

3-10 第二の試練

次の回廊に、黒い猫がいた。

朱里の家で見た猫だった。けれど、足元に濃い影を引いていた。

「クロ?」

猫の耳がわずかに動いた。

「今は、あかりだ」

猫は提灯を見つめたまま言った。

「さっき見えた教室に、おまえもいたんだな」

弥生はうなずいた。

3-11 音を消した猫

「黙っていた者が、今度は何を言いに来た」

弥生は答えを探した。正しい言葉を選ぶほど、口が重くなった。

あかりが先に言った。

「私が音を消した。もう、あの声は朱里へ届かない」

「朱里は、それを望んだの?」

猫の尾が止まった。

「また傷つくより、いい」

猫は回廊の暗がりへ退いた。弥生は追えず、その背を見送った。

3-12 第三の試練

最後の扉には、もう一人の弥生がいた。

朱里の家の前に立ち、入れずに帰ろうとしている。

「謝っても、許してくれなかったら?」

弥生は、その顔をよく知っていた。

「怖い」

言ってから、戸の方へ向き直る。

「でも、何も言わなかったことまで、なかったことにはできない」

扉を叩こうとした手に、夜灯猿の提灯が近づいた。

3-13 渡す相手

夜灯猿は、空白の紙を一枚差し出した。

「戻って、何を書く」

弥生は筆を取った。最初に、「許して」と書きかけた。

途中で止め、新しい紙をもらった。

「あのとき何も言えなくて、ごめん」

「誰に渡す」

「朱里に」

猿は紙を弥生へ返した。紙そのものは、光らなかった。

3-14 朱里の家

町へ戻っても、音はなかった。

文兎は弥生と一緒に、朱里の家まで歩いた。

戸を叩いても聞こえない。弥生は戸口の外に立ち、姿が見える場所で待った。

やがて中から、朱里が顔を出した。

用意した紙の角が、弥生の手の中で折れていた。

弥生は両手で紙を伸ばし、朱里に向けた。

言い足すための紙は、持たなかった。

3-15 受け取る手

朱里は、紙を読んだ。

すぐには手を出さなかった。

弥生は下を向きかけ、朱里の顔へ目を戻した。

しばらくして、朱里が紙の端を持った。

戸が閉まりかけ、それからもう一度開いた。

別の紙が差し出された。

「クロを見なかった?」

弥生はうなずき、紙の裏に「あかり、と名乗っていた」と書いた。

3-16 書く人

文兎も戸口へ出た。朱里は、弥生と兎を交互に見た。

弥生は、猫に会った場所と、まだ帰ってこないことを紙に書いた。

文兎はその下に、「手紙なら、届ける」と添えた。

朱里は机へ戻った。しまっていた古い筆を出した。

書き出しは、「どうして」だった。次の紙では、「帰ってきて」になった。

何枚か書いてから、朱里は一枚を折った。

文兎に渡すとき、紙の端には、まだ乾いていない墨がついていた。

弥生への返事は、その日はなかった。