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第三話 / 全四話
言えなかった言葉にも、渡す相手がいる。
半日前、弥生は手を上げられなかった。音を失った教室で出会った小さな兎が、言の葉の舟を浮かべる。
全16場面。あなたの速さで、一場面ずつ。

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物語は、そのままお読みいただけます。
ここまで読んでくださった、あなたへ。
もう一度、舟に乗るなら。
二つの足跡。「まっていて」の短冊。戸の前に残った、小さな前足。物語のはじめには、帰り道につながるものが、もう置かれていました。
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第三話 ふみうさぎ 猿島の夜灯猿・全16場面
町から音が消える、半日前。
弥生と朱里は、書道の教室で机を並べていた。
朱里は古い筆の穂先を、水の入った器で整えた。
「いつか、見た人が覚えていてくれる字を書きたい」
弥生がどんな字か尋ねると、朱里は少し考えた。
「まだ分からない。でも、書きたいものはある」
窓の外では、蝉が鳴いていた。
福月が朱里の半紙を掲げた。
「朱里、努力は立派です。けれど、これはまだ“書”ではありません」
弥生は、隣の手が筆を強く握ったのを見た。
昨日、朱里は同じ字を何枚も書いていた。弥生には好きな線もあった。
それを言おうとして、母の顔を見た。
間違っていたら、どうしよう。
膝から少し浮いた手を、弥生は元の場所へ戻した。
教室が終わると、朱里は一人で先に出た。
弥生は筆を洗いながら、足音を聞いていた。
今なら追いつける。何を言うか決めてから行こう。
水が透明になるまで、もう一度筆をすすいだ。
顔を上げたとき、廊下には誰もいなかった。
帰り道の角で、弥生は朱里の家の方を見た。
結局、そのまま自分の家へ帰った。
翌朝、目覚ましの針だけが動いていた。
廊下で福月が何かを言った。唇は動くのに、声が聞こえない。
窓を開ける。木は風で揺れていた。葉擦れも、蝉の声もしなかった。
弥生は自分の名前を言ってみた。
胸が震えたことだけが分かった。
机の上の半紙に「聞こえない」と書くと、福月も同じ言葉を書いた。
学校では、大人も子どもも紙を手にしていた。
昨日までと同じ教室で、机を動かす音さえしなかった。
朱里の席は空いていた。
弥生はその机に触れた。誰かが机を使わなくても、机はそこにある。
「昨日は、ごめん」
言おうとした言葉は、誰にも届かなかった。
弥生は、自分の教科書を開いた。
ページの間から、白い耳が出た。
小さな兎が机へ下り、弥生を見上げた。
口が動く。やはり音はない。
兎は教科書の余白に、指で文字を書いた。
「文兎。ふみと、と読む」
続けて、「言の葉を運ぶ、ふみうさぎ」と書いた。
弥生が手を伸ばすと、ページの奥に水面が開いた。
文兎は一枚の紙を折り、水面へ置いた。
紙の舟は弥生が乗れる大きさになり、机の向こうへ浮かんだ。
舟に移ったとたん、文兎の言葉が届いた。
「ここからは、言おうとしたことが聞こえる」
「町の音を、戻せる?」
「奪った者が、力を手放せば。でも、その前に会ってほしい者がいる」
文兎は、月の浮かぶ海へ舟を押し出した。
猿島の岸には、赤煉瓦の道が続いていた。
壁は湿り、足元の水に灯が揺れていた。
回廊の奥で、夜灯猿が提灯を持ち上げる。
「何を探しに来た」
「音を。それと……」
弥生は、朱里の机を思い出した。
「昨日、言えなかったことを」
猿は横へずれた。背後に、教室へ続く扉があった。
扉の向こうに、昨日の朱里が座っていた。
福月の声が響き、弥生の手が膝へ戻る。
朱里がこちらを向いた。
「どうして、何も言ってくれなかったの?」
弥生は顔を伏せた。言い訳をしようとすると、文兎が隣で止まった。
「それは、君が恐れている問いだよ。朱里の気持ちは、まだ聞いていない」
弥生が顔を上げると、朱里の席は空だった。
次の回廊に、黒い猫がいた。
朱里の家で見た猫だった。けれど、足元に濃い影を引いていた。
「クロ?」
猫の耳がわずかに動いた。
「今は、あかりだ」
猫は提灯を見つめたまま言った。
「さっき見えた教室に、おまえもいたんだな」
弥生はうなずいた。
「黙っていた者が、今度は何を言いに来た」
弥生は答えを探した。正しい言葉を選ぶほど、口が重くなった。
あかりが先に言った。
「私が音を消した。もう、あの声は朱里へ届かない」
「朱里は、それを望んだの?」
猫の尾が止まった。
「また傷つくより、いい」
猫は回廊の暗がりへ退いた。弥生は追えず、その背を見送った。
最後の扉には、もう一人の弥生がいた。
朱里の家の前に立ち、入れずに帰ろうとしている。
「謝っても、許してくれなかったら?」
弥生は、その顔をよく知っていた。
「怖い」
言ってから、戸の方へ向き直る。
「でも、何も言わなかったことまで、なかったことにはできない」
扉を叩こうとした手に、夜灯猿の提灯が近づいた。
夜灯猿は、空白の紙を一枚差し出した。
「戻って、何を書く」
弥生は筆を取った。最初に、「許して」と書きかけた。
途中で止め、新しい紙をもらった。
「あのとき何も言えなくて、ごめん」
「誰に渡す」
「朱里に」
猿は紙を弥生へ返した。紙そのものは、光らなかった。
町へ戻っても、音はなかった。
文兎は弥生と一緒に、朱里の家まで歩いた。
戸を叩いても聞こえない。弥生は戸口の外に立ち、姿が見える場所で待った。
やがて中から、朱里が顔を出した。
用意した紙の角が、弥生の手の中で折れていた。
弥生は両手で紙を伸ばし、朱里に向けた。
言い足すための紙は、持たなかった。
朱里は、紙を読んだ。
すぐには手を出さなかった。
弥生は下を向きかけ、朱里の顔へ目を戻した。
しばらくして、朱里が紙の端を持った。
戸が閉まりかけ、それからもう一度開いた。
別の紙が差し出された。
「クロを見なかった?」
弥生はうなずき、紙の裏に「あかり、と名乗っていた」と書いた。
文兎も戸口へ出た。朱里は、弥生と兎を交互に見た。
弥生は、猫に会った場所と、まだ帰ってこないことを紙に書いた。
文兎はその下に、「手紙なら、届ける」と添えた。
朱里は机へ戻った。しまっていた古い筆を出した。
書き出しは、「どうして」だった。次の紙では、「帰ってきて」になった。
何枚か書いてから、朱里は一枚を折った。
文兎に渡すとき、紙の端には、まだ乾いていない墨がついていた。
弥生への返事は、その日はなかった。