挿絵を読み込めませんでした。
物語は、そのままお読みいただけます。
第四話 / 全四話
帰ってきて。話の続きを、あなたと。
猿島から帰った夜、音もなく割れた風鈴。弥生は母への言葉と、一通の手紙を抱え、もう一度水鏡を渡る。
全31場面。あなたの速さで、一場面ずつ。

挿絵を読み込めませんでした。
物語は、そのままお読みいただけます。
ここまで読んでくださった、あなたへ。
もう一度、舟に乗るなら。
二つの足跡。「まっていて」の短冊。戸の前に残った、小さな前足。物語のはじめには、帰り道につながるものが、もう置かれていました。
画面の下のボタンで、一場面ずつ進めます。挿絵の下の点を押すと、別の絵へ切り替わります。自動送り中にスクロールしたり本文に触れたりすると、一時停止します。
音のない場面では、音楽をONにしていても休止します。登場人物や場面一覧を開いている間も、音楽と自動送りは止まります。
キーボード:左右キーで前後へ、空白キーで自動送りの切り替え。ボタンなどを選んでいる間は、それぞれの操作が優先されます。
第四話 羽祈弥生 言の葉の舟・全31場面
猿島から帰った、その夜。
羽祈家では、福月が風鈴と短冊を机に並べていた。
七夕に願いを書き、軒へ結ぶ。幼い頃から続けてきた儀だった。
福月は紙に、「音が戻ったら、一緒に聞こう」と書いた。
弥生はうなずいた。朱里が謝罪の紙を受け取った手を、まだ覚えていた。
母へ話したいこともあったが、どこから書けばよいか分からなかった。
福月が新しい紐を取りに行った間に、弥生は風鈴を持ち上げた。
紐の先が指に絡んだ。持ち直そうとして、手が滑った。
落ちる風鈴を、目だけで追った。
床の上に、透明な破片が散った。
割れる音も、しなかった。
弥生はその無音が怖くなり、布で破片を包んだ。
布包みを、机の下へ押し込む。
戻ってきた福月は、空になった場所を見て、弥生を見た。
弥生は首を振りかけた。
さっき、朱里へ紙を渡したときの自分が、急に遠くなった。
福月は半紙を取り、「手は」と書き始めた。
その二文字が、墨の筋になってほどけた。
福月は筆を洗い、新しい紙で試した。
どの字も、書き終える前に崩れてしまう。
弥生が同じ筆を借りて書くと、字は残った。
母だけに、別のことが起きている。
福月は筆を置いた。弥生の手を取り、怪我がないか確かめた。
その指が優しいほど、弥生は机の下の包みを出せなかった。
水鏡の表面に、白い耳が映った。
文兎だった。濡れないように包んだ一通の紙を抱えている。
弥生は布包みを引き出し、鏡へ見せた。
文兎は福月にも見える場所に、一枚の説明を書いた。
「これは、福月さんと言の葉を結ぶ儀の器。壊れた結び目は、音が戻るだけでは直らない」
続けて、「新しい器に、帰りの言葉を結び直そう」と書いた。
福月は読み終え、弥生の握った布をゆっくり開いた。
福月は戸棚から、まだ紐のない風鈴を出した。
弥生に見せて、軒を指さした。帰りを待つ場所を、二人で確かめた。
弥生は母の手を一度握り、水鏡へ入った。
声の代わりに、意味が届く道へ戻る。
「私が割ったの。まだ、お母さんに言えていない」
文兎は隣を歩いた。
「器を直す方法と、その言葉を渡す方法を、両方探そう」
羽澄国の奥には、四つの土地が続いていた。
和を守るかわわ。筆を守るあふり。燈を守るみぬま。還を守るうさ。
「四字を結ぶと、ほどけた言葉を人の世界へ運べる」
文兎は、短冊を四つに区切った。
遠くには、燃える楼閣が見えた。岸辺に、焦げた小さな足跡が残っていた。
弥生はそれを避けて歩いた。
文兎の抱える手紙の角に、朱里の墨が見えた。
かわわの国では、石蛙が道の真ん中に座っていた。
その向こうに、あかりがいた。
弥生は思わず近づいた。
「朱里に会ったよ。あなたに手紙を」
あかりは、文兎が差し出した紙から顔を背けた。
「今は、読めない」
弥生は一歩進みかけた。猫の足も、一歩後ろへ下がった。
「読めば、分かるから」
弥生の口から出かけた言葉を、石蛙の低い声が止めた。
「その者の、退く場所まで塞ぐのか」
弥生は、戸口で紙を受け取らなかった朱里を思い出した。
横へずれ、道を空けた。
「読めるときまで、持っているね」
あかりは答えず、弥生の脇を通っていった。
石蛙の足元の水に、「和」が浮かんだ。
弥生が短冊を近づけると、水の字が紙へ移った。
「以和為貴」
石蛙が一度だけ、その句を告げた。
弥生は空いた道を見た。返事がなくても、ここを閉じずにおく。
遠くであかりが振り返ったが、弥生は呼び止めなかった。
短冊の最初の一字が、乾いた。
あふりの国には、大きな鐘が吊られていた。
鐘楼の影に、一つ目小僧が座っている。
「言いかけのものを、見せろ」
弥生が筆を出すと、大きな眼に福月の顔が映った。
風鈴のない机。隠した布。字を書けなくなった母の手。
「そんなことを言えば、嫌われる」
弥生の筆先から、墨が落ちた。
弥生は「わたし」と書いた。
次の字へ進む前に、手が止まった。
一つ目小僧が、止まった筆の上へ影を落とす。
弥生は息をつき、新しい紙を取った。
「私が、風鈴を割りました」
字は不揃いで、最後の線がにじんだ。
それでも読み直し、紙を畳んだ。母へ持って帰るために。
眼に映っていた福月の顔が消えた。
一つ目小僧は、弥生の畳んだ紙を見ていた。
「まだ、許されたわけではないぞ」
「うん」
弥生は筆を拭いた。
鐘が一度、内側から震えた。「筆」の字が、短冊の二つ目へ移った。
鐘楼に刻まれた「声筆不屈」が、影の外へ出た。
みぬまの国へ入ると、笑う地蔵の前に小さな鳥がいた。
紙を折ってできた鳥だった。片方の翼が焦げ、同じ場所を回っている。
背には、「かえりたい」と書かれていた。
弥生は道の先を見た。母はまだ、新しい風鈴を持って待っている。
数歩進み、戻った。
「少しだけ、待って」
鳥にそう言って、持っていた紙を細く裂いた。
弥生は裂いた紙で、翼の破れをつないだ。
最後に、小さく「こちら」と書いて、明るい道へ鳥を向けた。
鳥は何度か傾いたあと、地面を離れた。
あかりが木陰から、それを見ていた。
地蔵の足元には、昔クロが灯を分けた短冊も残っていた。
「まっていて」
猫はその字を見て、前足を一度握った。
鳥は遠くの岸で、待っていた別の紙の鳥と並んだ。
弥生が立ち上がると、地蔵の掌に「燈」があった。
受け取った文字が、短冊の三つ目に収まる。
台座には、「一字一灯」と彫られていた。
あかりは、鳥の消えた方を見続けていた。
「私も、あそこを通った」
初めて猫の方から、旅のことを話した。
うさの国へ続く峠では、踏み石の間から文字がこぼれていた。
落ちた文字を拾うと、誰に宛てたものか分からなくなる。
夜灯猿が、提灯を置いて待っていた。
弥生は三字のある短冊と、母へ書いた紙を見せた。
猿は、まだ空いている最後の場所に触れた。
「その言葉を渡すとき、相手から何をもらうつもりだ」
弥生は、すぐには答えなかった。
母に、大丈夫と言ってほしかった。
怒らずに、前のように抱きしめてほしかった。
弥生はその二つを口にしてから、畳んだ紙を撫でた。
「でも、そう言ってもらえなくても、渡す」
夜灯猿がうなずいた。
「還」の字が、最後の余白へ入った。
和、筆、燈、還。四つが揃っても、弥生の手の震えは消えなかった。
文兎が、朱里の手紙を差し出した。
あかりはしばらく見つめ、それから紙を押さえた。
宛名は「あかりへ」だった。
その下に、朱里が書いた四字があった。
「哀知灯慈」
習い始めた頃から知っている、筆を返す癖が残っていた。
猫は、折り目の先をゆっくり開いた。
「いやなことがあった。今も、教室へ行くのは怖い」
「でも、私はまた書きたい」
「うれしいときには、うれしいと言いたい。いやなことも、自分で伝えたい」
あかりの足元で、紙の端が揺れた。
「あなたの言葉を、私が灯す」
「うまく書けない日もあるけれど、そのときは隣にいてほしい」
最後の一行だけ、少し墨が濃かった。
「帰ってきて。あかり」
「また、傷つくかもしれない」
あかりは手紙を見たまま言った。
夜灯猿も、文兎も、それを否定しなかった。
猫は、朱里が紙を丸めた日を思い出した。足跡のある紙を、貼ってくれた日も。
どちらの紙を残すか、自分は一度も尋ねていなかった。
あかりは、影の中に握っていた力を開いた。
「返す。朱里が使う声を」
あかりの影から、細い糸が町の方へほどけていった。
朱里の部屋で、紙をめくる音がした。
台所では、湯のみが机に触れた。
朱里は顔を上げた。それでも、すぐに声を出そうとはしなかった。
羽祈家の軒では、福月が新しい風鈴を持っていた。
風は聞こえる。けれど、福月の書いた文字はまだ崩れたままだった。
峠の踏み石が崩れた。奪われていた言葉が一度に帰ろうとして、道にあふれていた。
弥生の先に、渡れない暗がりが開いた。
あかりは、自分の胸に残る灯を見た。
「これを、道に使う」
文兎が隣へ来た。
「それを使えば、君はもう自分では境界を渡れない」
あかりはうなずいた。
「弥生を送ったら、舟を戻す。ここで待っていて」
猫は文兎の目を見て、もう一度うなずいた。
灯が伸び、弥生の足元で舟の形になった。
あかりは朱里の手紙を抱え、岸へ座った。
「一緒に」
弥生が言いかけると、猫は首を振った。
「母のところへ、帰れ」
文兎が舟を押した。あかりの姿が小さくなる。
猫は追いかけなかった。初めて、誰かが迎えに来るのを待つ側に残った。
舟の中で、弥生は短冊の空いた場所へ筆を置いた。
四つの土地で受け取った字が、紙の端を支えていた。
かえりみち
こえをむすんで
ははのもと
書き終えると、遠くに家の軒が見えた。
福月が持つ新しい風鈴へ、短冊の紐が伸びていった。
弥生は母の前へ下り立った。
二人で、新しい風鈴に短冊を結んだ。
ちりん。
福月が弥生の名を言いかけ、息をついた。
「……おかえり」
弥生は畳んだ紙を差し出した。それから、自分の声でも言った。
「私が、風鈴を割ったの。隠して、ごめんなさい」
福月は紙を読み、弥生を抱いた。
「帰ってきて、話してくれて、よかった」
夜が明ける前、弥生はもう一つのことを話した。
「朱里の字、私、好きなところがあった」
福月は、片づけていた破片から手を離した。
「教室で言えばよかった。でも、お母さんにも、何を書きたかったか聞いてほしかった」
福月は何か言いかけ、やめた。
朱里の紙を返したとき、朱里が口を開きかけていたことを思い出した。
「私からも、伝えなければいけないことがある」
その日の午後、朱里が会ってもよいと伝えてから、福月はその家を訪ねた。
弥生は戸の外で待った。
「教室で、あなたの書を全部否定する言い方をした。ごめんなさい」
福月は朱里の前に座り、続けた。
「どこを直すかを話す前に、どんな字を書きたかったのか、聞くべきだった」
朱里は半紙の端を指で押さえた。
「……まだ、見せたくないです」
福月はうなずいた。「分かりました」
許してほしいとは、言わなかった。
その夕方、庭の水鉢に小さな舟が着いた。
先に文兎が下り、その後ろから黒い猫が顔を出した。
朱里は戸を開けたまま、動けなくなった。
猫は一歩、敷居を越えた。喉が動いたが、声は出なかった。
文兎が朱里へ、短い紙を渡した。猫の失った声は戻らないことが書かれていた。
朱里は読み終えると、猫の前へしゃがんだ。
「あかり」
猫は、その呼び声に顔を上げた。
朱里が手を差し出すと、あかりは額を寄せた。
それから、少し遠慮するように膝へ前足を掛けた。
朱里は抱き上げた。半紙を踏んでいた頃と、同じ重さだった。
「ここ、空けておいたよ」
猫は丸くなった。
鳴き声はしなかった。朱里の手には、ゆっくりした呼吸が伝わっていた。
その夜、二人は机に向かわず、窓のそばに座っていた。
数日後、朱里は新しい半紙を広げた。
弥生が戸口から顔を出した。
「隣、座ってもいい?」
朱里は少し迷ってから、椅子を引いた。
机の脇には、昔の足跡の紙がある。その下に、まだ書きかけの一枚が増えた。
あかりが膝の上で体を伸ばした。朱里は筆を止め、その背を撫でた。
軒先の風鈴が、風の強さだけ揺れていた。