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言の葉の舟書道茶屋 ふみ兎の物語 第四話 羽祈弥生 — 言の葉の舟

第四話 / 全四話

羽祈弥生言の葉の舟

帰ってきて。話の続きを、あなたと。

猿島から帰った夜、音もなく割れた風鈴。弥生は母への言葉と、一通の手紙を抱え、もう一度水鏡を渡る。

全31場面。あなたの速さで、一場面ずつ。

羽祈弥生の物語の扉
言の葉の舟STORY 04 / 04
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第四話 羽祈弥生場面 01 / 31

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第四話 羽祈弥生 言の葉の舟・全31場面

4-01 音のない七夕

猿島から帰った、その夜。

羽祈家では、福月が風鈴と短冊を机に並べていた。

七夕に願いを書き、軒へ結ぶ。幼い頃から続けてきた儀だった。

福月は紙に、「音が戻ったら、一緒に聞こう」と書いた。

弥生はうなずいた。朱里が謝罪の紙を受け取った手を、まだ覚えていた。

母へ話したいこともあったが、どこから書けばよいか分からなかった。

4-02 割れた器

福月が新しい紐を取りに行った間に、弥生は風鈴を持ち上げた。

紐の先が指に絡んだ。持ち直そうとして、手が滑った。

落ちる風鈴を、目だけで追った。

床の上に、透明な破片が散った。

割れる音も、しなかった。

弥生はその無音が怖くなり、布で破片を包んだ。

4-03 隠したもの

布包みを、机の下へ押し込む。

戻ってきた福月は、空になった場所を見て、弥生を見た。

弥生は首を振りかけた。

さっき、朱里へ紙を渡したときの自分が、急に遠くなった。

福月は半紙を取り、「手は」と書き始めた。

その二文字が、墨の筋になってほどけた。

4-04 母の文字

福月は筆を洗い、新しい紙で試した。

どの字も、書き終える前に崩れてしまう。

弥生が同じ筆を借りて書くと、字は残った。

母だけに、別のことが起きている。

福月は筆を置いた。弥生の手を取り、怪我がないか確かめた。

その指が優しいほど、弥生は机の下の包みを出せなかった。

4-05 再び文兎

水鏡の表面に、白い耳が映った。

文兎だった。濡れないように包んだ一通の紙を抱えている。

弥生は布包みを引き出し、鏡へ見せた。

文兎は福月にも見える場所に、一枚の説明を書いた。

「これは、福月さんと言の葉を結ぶ儀の器。壊れた結び目は、音が戻るだけでは直らない」

続けて、「新しい器に、帰りの言葉を結び直そう」と書いた。

福月は読み終え、弥生の握った布をゆっくり開いた。

4-06 もう一度渡る

福月は戸棚から、まだ紐のない風鈴を出した。

弥生に見せて、軒を指さした。帰りを待つ場所を、二人で確かめた。

弥生は母の手を一度握り、水鏡へ入った。

声の代わりに、意味が届く道へ戻る。

「私が割ったの。まだ、お母さんに言えていない」

文兎は隣を歩いた。

「器を直す方法と、その言葉を渡す方法を、両方探そう」

4-07 四つの土地

羽澄国の奥には、四つの土地が続いていた。

和を守るかわわ。筆を守るあふり。燈を守るみぬま。還を守るうさ。

「四字を結ぶと、ほどけた言葉を人の世界へ運べる」

文兎は、短冊を四つに区切った。

遠くには、燃える楼閣が見えた。岸辺に、焦げた小さな足跡が残っていた。

弥生はそれを避けて歩いた。

文兎の抱える手紙の角に、朱里の墨が見えた。

4-08 石蛙の前

かわわの国では、石蛙が道の真ん中に座っていた。

その向こうに、あかりがいた。

弥生は思わず近づいた。

「朱里に会ったよ。あなたに手紙を」

あかりは、文兎が差し出した紙から顔を背けた。

「今は、読めない」

弥生は一歩進みかけた。猫の足も、一歩後ろへ下がった。

4-09 返事の場所

「読めば、分かるから」

弥生の口から出かけた言葉を、石蛙の低い声が止めた。

「その者の、退く場所まで塞ぐのか」

弥生は、戸口で紙を受け取らなかった朱里を思い出した。

横へずれ、道を空けた。

「読めるときまで、持っているね」

あかりは答えず、弥生の脇を通っていった。

石蛙の足元の水に、「和」が浮かんだ。

4-10 和を受け取る

弥生が短冊を近づけると、水の字が紙へ移った。

「以和為貴」

石蛙が一度だけ、その句を告げた。

弥生は空いた道を見た。返事がなくても、ここを閉じずにおく。

遠くであかりが振り返ったが、弥生は呼び止めなかった。

短冊の最初の一字が、乾いた。

4-11 鳴らぬ鐘

あふりの国には、大きな鐘が吊られていた。

鐘楼の影に、一つ目小僧が座っている。

「言いかけのものを、見せろ」

弥生が筆を出すと、大きな眼に福月の顔が映った。

風鈴のない机。隠した布。字を書けなくなった母の手。

「そんなことを言えば、嫌われる」

弥生の筆先から、墨が落ちた。

4-12 一画ずつ

弥生は「わたし」と書いた。

次の字へ進む前に、手が止まった。

一つ目小僧が、止まった筆の上へ影を落とす。

弥生は息をつき、新しい紙を取った。

「私が、風鈴を割りました」

字は不揃いで、最後の線がにじんだ。

それでも読み直し、紙を畳んだ。母へ持って帰るために。

4-13 筆を持ち直す

眼に映っていた福月の顔が消えた。

一つ目小僧は、弥生の畳んだ紙を見ていた。

「まだ、許されたわけではないぞ」

「うん」

弥生は筆を拭いた。

鐘が一度、内側から震えた。「筆」の字が、短冊の二つ目へ移った。

鐘楼に刻まれた「声筆不屈」が、影の外へ出た。

4-14 紙の鳥

みぬまの国へ入ると、笑う地蔵の前に小さな鳥がいた。

紙を折ってできた鳥だった。片方の翼が焦げ、同じ場所を回っている。

背には、「かえりたい」と書かれていた。

弥生は道の先を見た。母はまだ、新しい風鈴を持って待っている。

数歩進み、戻った。

「少しだけ、待って」

鳥にそう言って、持っていた紙を細く裂いた。

4-15 分けた紙

弥生は裂いた紙で、翼の破れをつないだ。

最後に、小さく「こちら」と書いて、明るい道へ鳥を向けた。

鳥は何度か傾いたあと、地面を離れた。

あかりが木陰から、それを見ていた。

地蔵の足元には、昔クロが灯を分けた短冊も残っていた。

「まっていて」

猫はその字を見て、前足を一度握った。

4-16 一字一灯

鳥は遠くの岸で、待っていた別の紙の鳥と並んだ。

弥生が立ち上がると、地蔵の掌に「燈」があった。

受け取った文字が、短冊の三つ目に収まる。

台座には、「一字一灯」と彫られていた。

あかりは、鳥の消えた方を見続けていた。

「私も、あそこを通った」

初めて猫の方から、旅のことを話した。

4-17 うさの国

うさの国へ続く峠では、踏み石の間から文字がこぼれていた。

落ちた文字を拾うと、誰に宛てたものか分からなくなる。

夜灯猿が、提灯を置いて待っていた。

弥生は三字のある短冊と、母へ書いた紙を見せた。

猿は、まだ空いている最後の場所に触れた。

「その言葉を渡すとき、相手から何をもらうつもりだ」

弥生は、すぐには答えなかった。

4-18 もらえなくても

母に、大丈夫と言ってほしかった。

怒らずに、前のように抱きしめてほしかった。

弥生はその二つを口にしてから、畳んだ紙を撫でた。

「でも、そう言ってもらえなくても、渡す」

夜灯猿がうなずいた。

「還」の字が、最後の余白へ入った。

和、筆、燈、還。四つが揃っても、弥生の手の震えは消えなかった。

4-19 あかりへの手紙

文兎が、朱里の手紙を差し出した。

あかりはしばらく見つめ、それから紙を押さえた。

宛名は「あかりへ」だった。

その下に、朱里が書いた四字があった。

「哀知灯慈」

習い始めた頃から知っている、筆を返す癖が残っていた。

猫は、折り目の先をゆっくり開いた。

4-20 朱里の言葉

「いやなことがあった。今も、教室へ行くのは怖い」

「でも、私はまた書きたい」

「うれしいときには、うれしいと言いたい。いやなことも、自分で伝えたい」

あかりの足元で、紙の端が揺れた。

「あなたの言葉を、私が灯す」

「うまく書けない日もあるけれど、そのときは隣にいてほしい」

最後の一行だけ、少し墨が濃かった。

「帰ってきて。あかり」

4-21 手放す前に

「また、傷つくかもしれない」

あかりは手紙を見たまま言った。

夜灯猿も、文兎も、それを否定しなかった。

猫は、朱里が紙を丸めた日を思い出した。足跡のある紙を、貼ってくれた日も。

どちらの紙を残すか、自分は一度も尋ねていなかった。

あかりは、影の中に握っていた力を開いた。

「返す。朱里が使う声を」

4-22 戻り始める音

あかりの影から、細い糸が町の方へほどけていった。

朱里の部屋で、紙をめくる音がした。

台所では、湯のみが机に触れた。

朱里は顔を上げた。それでも、すぐに声を出そうとはしなかった。

羽祈家の軒では、福月が新しい風鈴を持っていた。

風は聞こえる。けれど、福月の書いた文字はまだ崩れたままだった。

4-23 帰り道を渡す

峠の踏み石が崩れた。奪われていた言葉が一度に帰ろうとして、道にあふれていた。

弥生の先に、渡れない暗がりが開いた。

あかりは、自分の胸に残る灯を見た。

「これを、道に使う」

文兎が隣へ来た。

「それを使えば、君はもう自分では境界を渡れない」

あかりはうなずいた。

「弥生を送ったら、舟を戻す。ここで待っていて」

猫は文兎の目を見て、もう一度うなずいた。

4-24 結言還航

灯が伸び、弥生の足元で舟の形になった。

あかりは朱里の手紙を抱え、岸へ座った。

「一緒に」

弥生が言いかけると、猫は首を振った。

「母のところへ、帰れ」

文兎が舟を押した。あかりの姿が小さくなる。

猫は追いかけなかった。初めて、誰かが迎えに来るのを待つ側に残った。

4-25 還鈴の句

舟の中で、弥生は短冊の空いた場所へ筆を置いた。

四つの土地で受け取った字が、紙の端を支えていた。

かえりみち

こえをむすんで

ははのもと

書き終えると、遠くに家の軒が見えた。

福月が持つ新しい風鈴へ、短冊の紐が伸びていった。

4-26 おかえり

弥生は母の前へ下り立った。

二人で、新しい風鈴に短冊を結んだ。

ちりん。

福月が弥生の名を言いかけ、息をついた。

「……おかえり」

弥生は畳んだ紙を差し出した。それから、自分の声でも言った。

「私が、風鈴を割ったの。隠して、ごめんなさい」

福月は紙を読み、弥生を抱いた。

「帰ってきて、話してくれて、よかった」

4-27 母へ話すこと

夜が明ける前、弥生はもう一つのことを話した。

「朱里の字、私、好きなところがあった」

福月は、片づけていた破片から手を離した。

「教室で言えばよかった。でも、お母さんにも、何を書きたかったか聞いてほしかった」

福月は何か言いかけ、やめた。

朱里の紙を返したとき、朱里が口を開きかけていたことを思い出した。

「私からも、伝えなければいけないことがある」

4-28 福月の謝罪

その日の午後、朱里が会ってもよいと伝えてから、福月はその家を訪ねた。

弥生は戸の外で待った。

「教室で、あなたの書を全部否定する言い方をした。ごめんなさい」

福月は朱里の前に座り、続けた。

「どこを直すかを話す前に、どんな字を書きたかったのか、聞くべきだった」

朱里は半紙の端を指で押さえた。

「……まだ、見せたくないです」

福月はうなずいた。「分かりました」

許してほしいとは、言わなかった。

4-29 迎えの舟

その夕方、庭の水鉢に小さな舟が着いた。

先に文兎が下り、その後ろから黒い猫が顔を出した。

朱里は戸を開けたまま、動けなくなった。

猫は一歩、敷居を越えた。喉が動いたが、声は出なかった。

文兎が朱里へ、短い紙を渡した。猫の失った声は戻らないことが書かれていた。

朱里は読み終えると、猫の前へしゃがんだ。

「あかり」

猫は、その呼び声に顔を上げた。

4-30 声のない返事

朱里が手を差し出すと、あかりは額を寄せた。

それから、少し遠慮するように膝へ前足を掛けた。

朱里は抱き上げた。半紙を踏んでいた頃と、同じ重さだった。

「ここ、空けておいたよ」

猫は丸くなった。

鳴き声はしなかった。朱里の手には、ゆっくりした呼吸が伝わっていた。

その夜、二人は机に向かわず、窓のそばに座っていた。

4-31 書きかけの紙

数日後、朱里は新しい半紙を広げた。

弥生が戸口から顔を出した。

「隣、座ってもいい?」

朱里は少し迷ってから、椅子を引いた。

机の脇には、昔の足跡の紙がある。その下に、まだ書きかけの一枚が増えた。

あかりが膝の上で体を伸ばした。朱里は筆を止め、その背を撫でた。

軒先の風鈴が、風の強さだけ揺れていた。